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No.002 小野島 大:作品レビュー 横山健 -疾風勁草編- ドキュメンタリーフィルム

作品レビュー:No.002 小野島 大

ひとりの誠実で生真面目な男が、
パンクをやる意味、ロックをやる意味、
音楽をやる意味を問い直し、
変わっていく自分自身を語った作品なのだ。 by No.002 小野島 大

いわゆる客観的な視座によって作られたドキュメンタリーではない。終始一貫して(最後にもうひとり、意外な語り手が登場するが)横山健本人のひとり語りで綴られる、横山健の、音楽と人生。幼少のころの話も、ハイスタ結成のいきさつも、驚異的な成功を収めた90年代の栄光やその裏の苦悩や葛藤や挫折も、ソロになってからの着実な活動も、すべてが横山の主観のみで語られる。ようやくハイスタの幻影を振り切り、ソロ活動が軌道にのったまさにその時期に起こった3.11の衝撃。映像のトーンは一気に急転する。多くの人たちでそうであったように、横山の意識も音楽家としてのあり方も人生も、大きく変わる。そしてここで初めて、この映画が横山の主観のみで語られる意味のようなものが浮かび上がってくるのである。つまりこれはよくあるミュージシャンの成功譚や内幕ものや客観を装ったストーリーではなく、ひとりの誠実で生真面目な(・・・というには、いろいろふざけ過ぎな様子もふんだんに収められているが)男が、パンクをやる意味、ロックをやる意味、音楽をやる意味を問い直し、変わっていく自分自身を語った作品なのだ。

もちろん、ここでは語られない/語れないこともたくさんあるだろう。44歳の男の人生。きれいごとだけでは済まない事情も多々あったはずだ。たとえば3.11以前のぼくとのインタビューで、横山は「ハイスタをもう一回やるとしたら、理由はひとつしかない」と語っていた。その<理由>について彼は語ろうとしないし、もちろんここでも語られない。だがそんな事情など関係なく、震災の壊滅的被害を目の当たりにすることで、「やらなければいけない」という使命感のみで、ハイスタはまさかの再始動を果たし、AIR JAMまでも復活させてしまった。「自分の中で一番使える手札」としてのハイスタとAIR JAM。手段としてのハイスタ、道具としてのAIR JAM。だがそうすることで、KEN YOKOYAMA BANDでもPIZZA OF DEATHでも届かない領域に、確かに達したのだ。

「パンクが手を手をとってどうするんですかって感じですね(笑)。パンク・バンドのライブで目の前でね(中略)みんなで肩組んでマイムマイムして、それなんだよっていう。ずーっと思っていたんですよ」(2010年、『FOUR』発売時のインタビューより)

と、群れることを嫌い、パンクの孤高さを語っていた横山が、東日本大震災を機に変わる。繋がることの大切さ、助け合うことの価値のようなものを信じ、歌うようになった。背中に日の丸を背負い、自分はきっかけでいいのだとして、自分のために祈ったり願ったりするのではなく、誰かの願いや祈りを背負って生きていこうと決意する。自分のためではなく、人のために生き、歌い、音楽をやっていこうと覚悟を決める。もっと伝えたい、もっとわかってほしいと願い、以前より少しだけ聴き手を信じて、言葉を、音を紡ぎだすようになったのだ。

横山は、自分は誰にでもできるような音楽をやっているだけで、特別な人間ではないのだと言う。しかし、だからこその言葉は多くの人たちの共感を呼ぶ。あいつがやれるなら俺たちだってやれる。そう思わせてくれる横山は、やはり「特別な男」なのである。

by 小野島 大