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No.023 増田勇一:作品レビュー 横山健 -疾風勁草編- ドキュメンタリーフィルム

作品レビュー:No.023 増田勇一

さまざまな葛藤を抱えながらときには道化を演じ、ときには無防備なほどストレートに心情を吐露し、自らの信じる音楽と向き合う横山の姿に、“信じられるものを持っていること”の重さを改めて感じずにいられなかった。 by No.023 増田勇一

ドキュメンタリーと銘打っていながら、実は筋書きや演出の伴っている映像作品というのはさほどめずらしくない。それは、ありのままを映像化したところで、そこに受け手側が心惹かれるような物語が生まれるとは限らないからだ。

この『横山健‐疾風勁草編‐』がどのような制作意図のもとに撮影され、ここに切り取られた時間の流れが制作者側にとって想定通りのものだったのか否かを僕はまるで知らない。が、それでも勝手に確信できるのは、とてつもなくリアルなこの記録に仮に筋書きがあったとしても、それは時間経過に伴いながら形を変えてきたはずだということだ。

詳しい内容についてはこの場で説明するまでもないはずだが、この作品は、横山健という40代男性の足跡を、時系列に沿って追い駆けていくかのような流れに乗って始まる。が、単純にその音楽人生をまとめたものだとは言い難い。というのも、2011年3月11日、すなわち東日本大震災が発生したあの日以降の経過を追うことに占められている割合が、アンバランスといえるほど高いのだ。もちろんそれは、あの未曾有の大惨事にまつわるさまざまな出来事が彼自身の人生において、初めて楽器を手にしたときの記憶や、父親との確執といった問題と同じくらい、あるいはそれ以上の意味を持つことになったからなのだろう。あの日を境に、表現活動の動機や目的自体が変わった――そうしたことを口にする人たちは少なくないが、彼自身も例外ではなかったのだ。実際、それによって時間の流れが変わり、過去が現在と合流するような現象まで引き起こされることになったのだから。

横山自身の言葉によって現実の物語が綴られていく過程のなかで、印象的な場面や発言がいくつも目と耳に飛び込んでくるが、僕自身がことに象徴的だと感じたのは、2011年9月、横浜スタジアムでの『AIR JAM 2011』終演後の彼の表情の、なんとも形容し難い微妙さだ。しかも当日のライヴを振り返りながら「ステージに上がって音を出した途端に嘘くささを感じた」とまで彼は語っている。そのときの表情と言葉の響きを、その1年後に実現へと至った宮城県での『AIR JAM 2012』の際のそれと比べてみれば、誰もがその差異の大きさに驚かされることになるに違いない。

誰にも予期できず、誰にも回避することができなかった3.11の出来事は、結果、彼にとっての過去の意味、現在の意味、継続の意味すらも変えることになった。そして重要なのは、そうした変化が彼という人間にだけ生じたわけではないという事実だろう。僕の人生にも、あなたの人生にも、あなたの人生にまるで関わりのない誰かにとっての日常にも、小さくない変化が間違いなく生じたはずなのだ。もちろん本作に触れずにいたとしても、僕のなかからあの日の記憶が消えてなくなることはないだろう。が、さまざまな葛藤を抱えながらときには道化を演じ、ときには無防備なほどストレートに心情を吐露し、自らの信じる音楽と向き合う横山の姿に、“信じられるものを持っていること”の重さを改めて感じずにいられなかった。信じられるもの、なにしろそれは、かならずしも“裏切らないもの”とイコールだとは限らないのだ。ならば信じたいものを信じるしかないし、この人物は信ずるに値するのではないか。彼よりも8つほど年上で、まだ彼と会話すらしたことがない僕は、ふとそんなことを感じた。

そしてもうひとつ感じたこと。それは、こんな筋書きをあらかじめ用意できる人間などいるはずがないということである。今はなんだか、この物語の続きを見てみたい。

by 増田勇一