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No.008 遠藤妙子:作品レビュー 横山健 -疾風勁草編- ドキュメンタリーフィルム

作品レビュー:No.008 遠藤妙子

横山健という人間の、実に生々しい姿を撮った映画だ。迷いも葛藤もある。最後も結論など出していない。ただ「きっかけ」を出しているだけだ。
あれ?それってパンクロックそのものじゃないか! by No.008 遠藤妙子

横山健の、監督MINORxUによるドキュメントムービー「横山健 – 疾風勁草編 – 」。DVDになって改めて観る。冒頭のシーンに改めて集中させられる。初めて観たときは驚いた。2011年の横浜でのエアジャム。その大舞台の後の横山健の、葛藤をあらわにした言葉、笑顔になりたくてもなれない表情。多くの観客と信頼するスタッフに囲まれた最高の夜のはずなのに、最高にはとてもなれなかった心情を、横山はなんとか言葉にする。ファンにとっては決して嬉しくないであろうシーンを撮らせて、そしてそんなシーンを冒頭にしてしまう。撮る人間と撮られる人間、こんなにも信頼関係があるなんて!

映画が進むと驚くシーンは再び出てくる。ミュージシャンでありパンクロッカーであり表現者である者のドキュメントムービーなのに、音楽が流れている時間が本当に少ない。ライヴのシーンになってもこれからってときに転換、横山の語りが始まったりする。語りの後ろに曲が流れていたりもするが、いつの間にか語りだけになっている。驚きながらも言葉と表情に釘付けになっていく。幼い頃の話、家族の話、バンドを始めた頃の話、そしてHi-STANDARDの話。Hi-STANDARDの存在が大きくなればなるほど抱える葛藤。あのハイスタの、夢のようにキラキラした世界の後ろには、こんな思いがあったのかと改めて思う。

横山に会ったとき、「Hi-STANDARDは良くも悪くも奇跡のバンド」と言っていたのだが、私はHi-STANDARDは夢のバンドだと思っていた。夢を目指し実現して、多くの人に夢を与えたバンド。素晴らしかった。だけど夢を掴んだ後は?夢の世界の住人になるのか?横山は夢の世界などには暮らせない。だから現実に飛び込んでいった。それがソロでありKen Bandだと私は思う。

映画はソロ、Ken Bandの話に進み、2008年のDEAD AT BUDOKAN、2010年のDEAD AT BAYAREAを終え、「世の中には考えることがいっぱいあるんだよ。俺の音楽がそのきっかけになればいい。入口でいいんだよ、俺は」とリスナーに現実を生きようぜと伝え、それは現実を生きる(つまりソロで、Ken Bandで生きる)彼の決意でもあるような言葉を言う。ここで終われば(実際、ここで終わる予定だったそうだ)、これまでの半生を振り返ったドキュメントムービーだっただろう。

だが、ここからまた驚きが訪れる。

2011年3月11日。東日本大震災。ここからが本当にドキュメントなのだ。過去を振り返るのではなく日々を撮る。明日が予想できないほどの日々を過ごしただろう。瓦礫の山を前にして、それまでの自分を、音楽を、社会を省みただろう。そして被災地の人への思い。現実を生きる彼ら(横山だけではなく、MINORxUも思いは共有していたはずだ)は思いを行動にしていく。そんな中で横山は自分自身を獲得していく。いや取り戻していく。映画が終わりに近づき、震災前の最初に終わる予定だったシーンと同じ言葉を言う。「俺の音楽はきっかけであればいい」と。同じ言葉だけど、最後に「俺じゃなくて自分を信じてほしい。自分が信じられなくなったら思考を切り替えていく手助けをするから」というような言葉が加わっている。そして流れる「Beliver」。

横山健という人間の、実に生々しい姿を撮った映画だ。迷いも葛藤もある。最後も結論など出していない。ただ「きっかけ」を出しているだけだ。まるで「映画の続きはオマエラが作れよ」と言っているように。あれ?それってパンクロックそのものじゃないか!私はパンクロックから答えはもらっていない。だけど「気づき」をもらった。「オマエはどうする?」それがパンクロックだった。そういう意味でこの映画はパンクロックムービーで、それこそが横山健とMINORxUが共有していたものなんじゃないか。

横山健、そしてMINORxU。2人だから撮れた映画だなと当たり前のことを実感しながら、映画の続きは自分の人生で作っていかなければ!なんて私は思っている。

by 遠藤妙子